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民俗学とは何か(柳田國男を知る~その3)

 前回までの記事で「柳田國男とは誰か」、「『後狩詞記』とは何か」を学びました。

 今回は柳田國男本人については閑話休題。柳田國男が開いたとされる「民俗学」について勉強したいと思います。と言っても、筆者の専門は都市計画やまちづくりで、民俗学に関してはずぶの素人です。もし間違いがございましたらご指摘のほどよろしくお願いいたします。

「民俗学」、「民族学」そして「文化人類学」

 まず「民俗学」を広辞苑(第7版)でひいてみると、「(folkloreイギリス・Volkskundeドイツ)一つの民俗(主として自民族)の伝統的な生活文化・伝承文化を研究対象とし、文献以外の伝承を有力な手がかりとする学問。日本では柳田国男・折口信夫らの主導によって独自の発展を遂げた。」とあります。

 やはり、柳田國男がその道を開いたようです。広辞苑にも認められる柳田國男、筆者もこのようになりたいものです。

 しかし、ここで別の記述にも目が行きました。それは「民族学」です。発音が同じこの単語は、「(ethnology)民族文化の特質を他文化との比較によって研究する学問。個々の民族の起源・系統・類縁関係・影響関係などを究明する歴史民族学的な方法と、個別の民族文化の記述・分析を重視する方法とがある。→文化人類学。」という説明がなされていました。

 筆者の頭はここで「?」がいっぱいになりました。つまり「民俗学」と「民族学」は何が違うのでしょうか。さらに「民族学」の説明の最後には、「文化人類学」とまで書かれています。これら3つの違いは一体何なのでしょうか。

 念のため「文化人類学」をひいてみると、「人類学のうち、多様な文化・社会の側面を重視して研究・調査を総合的に行う部門。広義には社会人類学や民族学を含む。」とありました。筆者はさらに分からなくなってしまいました。

 一つ一つ解きほぐしていきたいと思います。

 この記事のサブタイトルは「柳田國男を知る~その3」ですので、柳田國男以前・以後でその歴史を見たいと思います。

柳田國男以前の民俗学

 柳田國男以前、例えば江戸時代などにも地域の民俗文化を対象にした論説は存在しました。本居宣長の『玉勝間』などがその例で、「田舎には古の雅な文化が残っている」というようなことを記述しています。しかし、計画的な実地採集がなされていなかったことに柳田國男は限界を感じています。つまり近代科学として、即ち分析的な学問としての成立という意味では、近代西欧科学の影響を受けてのものであったということができます。

 近代と言われる明治になってからまず注目すべきは、人類学(Anthropology)のはじまりです。坪井正五郎つぼいしょうごろうという学生が中心となって、1884(明治17)年に人類学会がつくられました。研究の対象は、動物学上及び古生物学上の人類の研究、また古物遺跡などを探る考古学とともに、内外諸国人の風俗習慣や口碑方言などとされています。

 この人類学会において、「人種学(ethnology)」と「土俗学(ethnography)」が分けて考えられており、前者が諸人種そのものの調査研究をし、後者が諸人種の風俗習慣についての調査研究をするとされています。しかしこの「人種学」という単語について、柳田國男はエスノロジーは人種学ではないと批判しています。さらに「土俗学」という語は、地方民にとって失礼に感じるので使わないと言っています。

 一方、日本民俗学会が設立されたのは1912(明治45)年ですが、柳田國男は関係がなく、中心となったのは石橋臥波がはという人物でした。「民俗」という単語はドイツのフォルクスクンデ(Volkskunde)の訳語であり、対象とするものは国民の間に現存する伝説、童話、俚諺や迷信などでした。しかし、機関紙『民俗』は1915(大正4)年を最後に廃刊になっています。

柳田國男以後の民俗学

 では、柳田國男が力を入れていた活動は何だったのでしょうか。それは1913(大正2)年に創刊された『郷土研究』という雑誌でした。上記の民俗学会に対して、「『民俗』という単語を用いるのは時期尚早だ」と感じていた柳田國男は、郷土研究を大事にしていました。どういう議論があったかというと、神が依り坐すための「依代よりしろ」などの重要な民俗学の概念が登場しています。

 1917(大正6)年に『郷土研究』が休刊し、その2年後に柳田國男は官僚を辞め、朝日新聞社の客員となりました。この時の条件が、3年間は自由に旅行させてくれるというものだったそうです。なんということでしょう。さすが柳田国男ですね。

 その条件を大いに利用し渡欧した柳田國男は、1923(大正12)年に帰国した後、執筆や講演を精力的に行っていきます。そして、1925年に雑誌『民族』を創刊します。この雑誌は学際的に広い範囲の分野の論文が掲載されていました。そして、この段階ではまだ柳田國男の中にもfolkloreとethnologyの訳語について、明確な区別がなかったと思われます。

 その後、若手研究者との編集思想上の衝突があり、雑誌『民族』は1929(昭和4)年4月に廃刊となります。歴史科学としての民俗資料を広く採集したい柳田國男と論文集としての雑誌を目指す若手研究者たちの間に溝が広がり、1929年7月には柳田國男ぬきで民俗学会が設立されます。

 このいざこざが解消したのは、柳田國男が61歳となった1935(昭和10)年でした。柳田國男の還暦を祝いたい若手研究者たちが日本民俗学講習会を計画し、全国から150名以上もの参加者を集め、7日間も開催されました。また、この4日目に民間伝承の会というものが誕生しています。

 そして民俗学会が発展的に解消して、日本民族学会が誕生しました。この学会の設立趣意書では、民族学は文化人類学や原始文化学とも言えるもので、体質人類学や人種学とは異なるとされています。また民俗学との混同を避けて、明確に民族学と名乗り、海外の民族学と連絡しながら世界の民族との比較研究を進めようとされていました。さらに、明治以来の人類学会との協力関係も築かれました。

 時間はちょっと飛んで、戦後の1946(昭和21)年に、民間伝承の会による雑誌『民間伝承』が復刊しました。この民間伝承の会を主宰していたのは柳田國男でしたが、弟子の折口信夫の助言によって日本民俗学会となりました。この日本民俗学会が現在まで続いています。

他学問との違い

 以上、日本の民俗学周りの歴史を足早に確認しました。ここで最初の問いに戻ります。つまり、民俗学と民族学、文化人類学の違いとは何なのでしょうか。

 まず、民族学と文化人類学についてですが、日本においては同様に扱われています。これは日本民族学会の設立趣意において、文化人類学ともいえるとされたことや、日本民族学会が日本文化人類学会に改称されていることからも分かります。

 次に民俗学と民族学の違いですが、これは広辞苑の解説通りに解釈して、民俗学が国内の伝承等を研究するもので、民族学が国外のものについて研究するものと理解することが正しいと思われます。ただし、ここで重要なのは、広辞苑では比較研究を行うことは「民族学」についてのみ記載がありましたが、「民俗学」においても柳田國男は比較研究を行う重要性を説いています。

 結局、広辞苑の解説通りのまとめになってしまいましたが、その背景には様々なドラマがあったことが分かりました。民族学の始まりの方にも柳田國男が関係していたことも分かりました。

 特に筆者的に心に残ったものは、民間伝承の会が日本民俗学会に改称した時の柳田國男と折口信夫とのやり取りです。これは新谷尚紀『民俗学とは何か 柳田・折口・渋沢に学び直す』に詳しい状況が書いてありますので、気になる方はぜひお読みください。椎葉村図書館ぶん文Bunでも借りられます。

 次回は元に戻って、柳田國男の椎葉村での足跡を追いたいと思います。


参考文献
1. 宮田登『はじめての民俗学 怖さはどこからくるのか』ちくま学芸文庫, 2012
2. 新谷尚紀『民俗学とは何か 柳田・折口・渋沢に学び直す』吉川弘文館, 2011
3. 柳田國男『日本の民俗学』中公文庫, 2019

文責
椎葉村地域おこし協力隊
移住コーディネーター 日本で最も美しい村連合アンバサダー
森崎慎也

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