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柳田國男をもてなした人たち(柳田國男を知る~その4)

 今回は椎葉村の中で、柳田國男がどういう経路を辿ったのかについて学んでいきたいと思います。しかし、ただ行程を追っていくだけではあまり面白くないため、柳田國男を椎葉村内でもてなした人たちに着目したいと思います。詳細な行程が知りたい方は、牛島盛光編著『日本民俗学の源流―柳田国男と椎葉村―』に詳しく載っておりますのでぜひお読みください。

なぜ柳田國男は椎葉村を訪れたのか

 柳田國男は1908(明治41)年の7/13から7/19までの1週間、椎葉村を訪れています。農商務省の官僚だった柳田國男は、九州・中国・四国地方の視察旅行を行っており、その途中で椎葉村に1週間も滞在しました。

 では、柳田國男が椎葉村に興味を持ったきっかけは何だったのでしょうか。実は説が3つ提唱されており、筆者にはどれが正しいか判断する能力がないため、3つ全て紹介します。

1.椎葉の焼畑に自生する山茶を見に来た説(千葉徳爾説)
2.以下3つの理由が合わさって興味を持った説(牛島盛光説)
 ①熊本の廣瀬弁護士から椎葉村の話を聞く
 ②人吉の鍋屋旅館で椎葉の平家伝説を聞く
 ③都城の持永旅館で当時の宮崎県知事から焼畑の話を聞く
3.江戸時代の旅行記を読んでいて興味を持った説(江口司説)

 どの説も相応に説得力があり、一方で批判されている所もあり、どれが正しいのか筆者には判断できかねます。文末に参考文献を挙げますので、読者の皆様もどの説につくか考えてみてください。

柳田國男をもてなした人たち

 さて、ここからが本題です。今でさえ秘境の椎葉村、柳田國男の時代に村内を隅々まで見て回るためには案内人が必要だったと思われます。

 この章では、そんな「柳田國男をもてなした人たち」を特集します。

中瀬すなお

 まずは何と言っても外せないのは、当時の村長である中瀬淳です。柳田國男の1週間の滞在を案内し、『後狩詞記』になる原稿まで送った人物です。

 笹の峠で柳田國男を迎えた中瀬は、その時の柳田国男を「峠の上で待つほどに下から上ってきた人を見ればまだ若い、しかも紋付に仙台平の袴をはき、白足袋姿の貴公子で、旅姿ではなかった。これには全く度肝を抜かれた」と述懐しています。

中瀬淳(『日本民俗学の源流―柳田国男と椎葉村―』牛島盛光編著 P.26より)

 実は長い間、柳田國男はこの中瀬村長の自宅に5泊したと考えられていました。しかし、柳田國男の友人であった田山花袋かたいに宛てた絵葉書が発見されたことにより、村内の各地に泊って歩いたということが分かりました。

松岡久次郎

 南郷から笹の峠を越えて椎葉に入った柳田國男が1泊目の宿としたのは、旧松尾村庄屋の松岡久次郎邸でした。当時49歳の松岡久次郎は西臼杵郡会議員を務め、その権勢は椎葉村の内外に響いていました。

松岡久次郎(『日本民俗学の源流―柳田国男と椎葉村―』牛島盛光編著 P.25より)

 松岡家では馬を十数頭飼育し、駄賃付け(荷運びによる交易)を行っていました。また、松岡久次郎は客をもてなすことが好きだったらしく、酒を飲みながら語らっていたそうです。なお、三日三晩も徹夜で酒を飲んでいたという情報もあります。

黒木盛衛もりえ

 2泊目と5泊目の宿は当時の郵便局長であった黒木盛衛邸でした。黒木盛衛は19歳で椎葉村書記として勤務を始め、22歳の時に助役に抜擢されました。そして25歳で郵便局長に就任し、柳田國男が椎葉に来た時には29歳でした。

黒木盛衛(『日本民俗学の源流―柳田国男と椎葉村―』牛島盛光編著 P.26より)

 柳田國男が椎葉を訪れた3年後の1911(明治44)年に32歳で村長に就任しました。その後宮崎県議会議員や椎葉村村議を経て、1931(昭和6)年から再び村長を2期務めています。

椎葉徳蔵

 3泊目は大河内の那須徳蔵邸でした。大河内の庄屋は別の家だったのですが、この椎葉徳蔵の家に狩の古文書があると聞いた柳田國男が興味を示し、この家に泊ったと言われています。

椎葉徳蔵(『日本民俗学の源流―柳田国男と椎葉村―』牛島盛光編著 P.28より)

 椎葉徳蔵は当時51歳で、村会議員と畜産牛組合評議員等を務める篤農家でした。また狩の古文書を持っているように、狩猟伝承者でもありました。この狩の古文書が、『後狩詞記』のもとになったわけです。

那須源蔵

 4泊目の宿は不土野の庄屋だった那須源蔵邸でした。那須源蔵は当時45歳で西臼杵郡会議員でした。また1905(明治38)年より酒造業を経営し、椎葉村内の高額納税者だったそうです。

那須源蔵(『日本民俗学の源流―柳田国男と椎葉村―』牛島盛光編著 P.31より)

 那須家には古文書が数多く残されており、中には宮崎県立図書館にもない貴重な資料もあるそうです。しかし、柳田國男の後年の著作に那須家のことは出てこないことから、いくら柳田國男といえど、一晩で目を通すことはできなかったと思われます。柳田國男も人間なんですね。

那須鶴千代

 椎葉村最後の宿は中の瀬の那須鶴千代邸でした。那須鶴千代は当時20歳で、当時の椎葉には珍しい2階建ての自宅を構えたばかりでした。

那須鶴千代(『日本民俗学の源流―柳田国男と椎葉村―』牛島盛光編著 P.34より)

 那須鶴千代は若くして主に鉄道の枕木を取り扱う材木業を起業し、また馬見原から山産物を買い付けに来る仲買人を止める宿屋も経営して財を成しました。当時の山村には珍しい若い実業家だったわけです。

 以上が、中瀬村長以下5人の「柳田國男をもてなした人たち」です。柳田國男は椎葉村滞在を振り返って、「非常なる歓待を受けた」と述べています。各地を渡り歩いている柳田國男がそう述懐するのですから、椎葉流のもてなしは大変すごかったのだと思われます。筆者も村外からくる友人に対し、「非常なる歓待を受けた」と言わしめるくらいのもてなし方を身に着けたいものです。

柳田國男のルート

 以下の図の赤線が、柳田國男が通ったとされるルートです。「峠越えの無い旅行は、正に餡のない饅頭である」と書いた柳田國男らしく、いくつもの峠越えをしています。このコースを7日間で歩きとおした柳田國男の健脚には脱帽です。

「ONLY ONE Shiiba issue15 特集 柳田國男を辿る」P.11より

 この回をもって、ひとまず「柳田國男を知る」は終わりにしたいと思います。今後はインタープリター研修のツアー完成に向けて取り組んでいきたいと思います。

 また、【協力隊活動日記】の方もよろしくお願いいたします。


参考文献
1. 牛島盛光編著『日本民俗学の源流ー柳田国男と椎葉村ー』岩崎美術社(1993)
2. 飯田辰彦著『のさらん福は願い申さん 柳田國男『後狩詞記』を腑分けする』鉱脈社(2015)
3. 江口司『柳田國男を歩く―肥後・奥日向路の旅』現代書館(2008)
4. Only One Shiiba issue15 特集 柳田國男を辿る

文責
椎葉村地域おこし協力隊
移住コーディネーター 日本で最も美しい村連合アンバサダー
森崎慎也

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